9月30日 (金)
牛の 安楽死
又も 【牛の 安楽死】。福島の放射能危険から、避難された農家の方々の牛達、、。 人々への迷惑と、牛達のこれから先の事を苦慮されての繋ぎ留めの処置。 取りあえず ”生き延びて” と、解き放なして避難された方々、、。 日が経ち、畜舎の中で繋がれたまま、死んでいる牛達の映像、、。今又、その生き延びた牛達の 安楽死の話、、。 どちらの処置を取られたにしろ、私には、飼い主の方々の、言葉に尽くせない、悲しみ苦しみが伝わります。 私も、四十年前、梅の経営を維持する資金つくりに、牛の肥育牧場をしていました。 飼い主にとって牛といえども、ペットの犬や猫と同じようなものです。 去年宮崎は、”口蹄疫”の関係で、多くの牛や豚を安楽死させました。 発病した牛なら仕方がありませんが、元気な牛も殺しました。 今思い出しても胸が詰まります。飼い主の方々は、【二度と笑える日はない】とさえ思い、悲しみ苦しまれたと思います。 牛の安楽死の報道以来、私は自分の気持ちの立て直しが出来ず、昔の牧場跡に行ってみました。 四十年前、ふと牛の屠場を見てしまって、五カ年計画の残り一年を残したまま、牧場を止めました。 牧場の一番見晴らしの良い、約二千坪の場所に、千五百本の欅と山モミジを、屠場に送った牛達の墓標、供養塔として植え、引き上げたましたが、小雨の中、その供養塔に会いに行ってきました。 場所柄 何回も開発や借地の相談がありますが、ここは、未来永劫まで自然林として残せるよう、何か良い方法はないものかと、考えています。
左の写真は四十年前、私が牧場を去る日、牛達の供養塔として植えた、五.六十センチの山紅葉と欅の苗の現在。 真ん中は、人手に渡った当時の私の宿舎兼、飼料倉庫の廃屋、ススキの中に、まだ建っていました。 右は、供養の林〔奥〕と、隣接する土地〔手前〕ですが、N.P.Oの競争馬の老後?余生?の牧場になっています。
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