Diary 2007. 4
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4月28日 (土)   2年生の 梅園

 昨日から今日にかけて、2年生梅園の草刈を済ませました。 草を刈り終わった後の梅は、すっきりしたようで、若葉をのびのびと伸ばして、夕風に嬉しそうです。 下の芹田の、一番遅い山藤も満開となり、晩春というより初夏の気配が漂い始めました。 明日から連休に入りますが、私と後継者は、急ぎの発送や、野菜の手入れで日曜日だけの休みになります。 お客様へのお荷物のパッキン野菜が足りないと、気が気でなりません。
左の写真は、草を刈られてセイセイしている、2年生の梅園。次の写真も、先日26日の同じ場所からの写真ですが、右と左の場所が入れ替わっておりすみません。 右の芹田の山藤は、とっても綺麗なのですが、私が下手なので、、、。

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4月26日 (木)   梅園の 土作り

 今年2年生になった梅園です。 収穫が出来るようになるまで、ひたすら草つくりをして、その草を刈り倒して畑に敷き、又伸びたら刈り取って畑に敷き、これを6年から8年繰り返していくうちに、梅の樹も生長し、土壌も深くなつて行き、収穫する頃は、生きた有機の土が出来上がります。 そして、無農薬で生産できる畑になり、梅の実の成分を高くし、健康を支えてくれる美味しい梅が生産できるようになるのです。
左は、防風をかねて植えた、椿の木(さざんか)と、冬、一番伸びる種類の麦を植えた、2年生の梅畑。 真ん中も2年生の梅園ですが、梅は伸びた草に隠れて見えません。 明日は、この畑の草刈りですから、梅達は風通しも良く、土は敷き草で乾燥を防いでもらって、幼木たちは日に日に大きく伸びていきます。 右は、梅園の防風杉につかまって咲いた、山藤の花。

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4月25日 (水)   梅園の 草刈の始まり

 梅園の草刈を始めました。 前もって体力と、草刈り機(モア)等の調整を済ませ、『腹をくくって』始めないと、5ヘクタールの広さですから、大変です。 今年は、豊作過ぎて、いっぱい成っている樹や、台風で裂かれ倒れたまま、いっぱい実をつけている樹もあります。 又、病気も出ておりますが無農薬で、土壌が助けてくれるようです。 昨年の病気はひどかっのですが、枯れた梅はありませんでした。
左写真は草刈を始めた梅園、この伸びた元気な草が、土壌菌の餌になり、生きた土にしてくれます。 真ん中は、たわわに成り過ぎた梅。 左は台風で裂け、地上に横倒しになったまま、実をつけています。

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4月24日 (火)   梅の収穫準備

 今日から 梅の収穫準備に入りました。 この地方では、今年は不作と云う事ですが、紅梅園は、嵐が来ない限り豊作です。 しかし、寒暖の差の乱高下や雨で、今になって病気が発生し、新芽の柔らかい葉がやられました。太り始めた実が丸裸で、日の光にさらされ可愛想です。栄養は昨年、樹の体内に蓄積しておいたものでまかなっているのか、実は元気にシャンとしている左の写真です。 真ん中も病気にやられました。昨年は元気だったのですが、、。来年は免疫力がつくよう、祈りながら見守るだけなので、切ないです。  左は、すぐそばで咲き始めた、逞しい野生のあざみの花。

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4月23日 (月)   生活の権利

 今日は憲法記念日 60周年とか、、。 テレビで『生活保護』の報道を見ていて、昔、若かった頃のことを思い出しました。
私26歳の時、肺結核をわずらって、子供を連れて離婚しました。慰謝料、養育費はもちろん、生活の根拠は何もなし。 借金から始まって、昼間でないと出来ない仕事は明るいうちに、夜でも出来る仕事は夜にまわす。雨の日に出来る事は雨の日にして、お天気の日でないと出来ない事はお天気の日にと、12時間以上の労働。 お金も食べ物も『あるうちに倹約する。無くなってからでは、倹約も出来ない。間に合わない』という、母から教わった鉄則を守り、、、。 その母の躾のお陰で、資金も仕事も先ず目標を立て、計画的に進めていく習慣がついたのですが、、、。
 必死で子育や梅園の仕事に取んでいる頃の夕方、梅園の畑仕事から帰る車の中でも、『帰ったら、あれを先にして、これをしながら、、』と暗くなるまで作業していたのですが、帰る途中、何時もまだ陽もあるうちから、早々と木陰にむしろを敷いて、晩酌を始めている人達がいました。『失業対策事業』で生計を立てている人達です。 『何で『失対』の人達が早々と毎日晩酌して、税金を払っている私が、こんなに夜遅くまで働かないといけないのか、、、』と、不満タラタラの頃がありました。 又、国民年金の受給金額より、生活保護費のほうが多いとか、、、今でもいろいろあるようです。
いずれにしても、一度きりの人生ですから、自分の人生設計を立て、それなりに一生懸命生きて、その上で、生活できなくなった時は、権利ではなく『有難い』と、生活の保護を受けて、一度きりの人生を、満喫して全うしたら良いと思います。
『権利』を強く打ち出し過ぎると『義務』は??となり、『義務と権利』は裏表。 世の中は、地球は、動物も植物も微生物も人間も、みんな同じレベルで共存の世界です。 お互いの思いやりがあれば、現在の社会状態でも、もう少しは暖かく、今よりはゆとりと優しさを感じられる社会になると思うですが、難しいものでしょうか、、。
 今でも忙しい私の寿命は、130歳にして頂かないと、帳尻があいません。 私は未だに、小学生時代のように時間に縛られ、『夏休みのような毎日は何時になるのかなぁー』と、朝寝し放題!、本を読み放題!、昼寝し放題!、したい事し放題!の日々に憧れています。 


4月20日 (金)   狸の親子

 数年前の今頃、梅の漬け込み準備の工場清掃のため、水をジャブジャブ使い、動力の噴霧器で清掃をはじめました。 しばらくして、子犬の鳴き声に似た声がするので耳を澄ますと、少し変なので、声のする工場裏の里山に、そっと近づいてみると、水路のU字溝の中で、水に濡れながら親狸が子供をくわえて、安全な土手に必死に持ち上げようとしています。 急に大量の水を流したため、溝の隙間から水が溢れ出し、狸の巣が水浸しになって引越しの様子。 まだ目も開いてない子狸が4匹、片方の土手でモソモソしながら待っており、親狸は、口にくわえた子狸を、安全な土手に持ち上げようと必死ですが、足が短いせいかU字溝が深いのか、届きません。しばらく見守っていましたがたまりかね、『チョット!加勢してやるからね』と近づき、溝の中の子狸を土手に上げましたが、もう死んでいるようでした。私を見て隠れていた親狸は、残りの子狸をさっさと安全な土手に移し終えると、真っ先に死んだ子供をくわえて、山のほうに移動させ、残りも1匹づつくわえて、移動させました。
もう死んでいるのに、弱った子を真っ先に助けようとする親狸に、ほんとに感動しました。 死んだ子は、ぐったりしているので、持ち上げられなかったのでしょう。元気な子はさつさと移し終えたのです。 びっしょり濡れながら諦めきれず、必死で寸足らずの体をのばして、土手に上げようとしていた姿が忘れられません。
写真は狸が住んでいる、里山の山藤の花と、その下に2月の末掘った、蛙のすみかや、小鳥の水飲み場。水が溜まりオタマジャクシが、私の気配に驚いて、パシャパシャと走り回ります。 右は、工場の近くから撮った、19日午後の霧島連山の雪です。

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4月17日 (火)   赤ちゃん ポスト

 ここしばらく『赤ちゃんポスト』の事が、心のどこかに引っかかり、折に触れ心をよぎります。 日曜日の夕方、神柱神社の前に車を止め、甥と植木市を見ようと待ち合わせの間、『赤ちゃんポスト』の事が浮かびました。 
昔、私が肺結核を発病し、医師に3ヶ月の胎児を諦めるよう指示され母と産婦人科に行ったのですが、付き添いの母をまいて、病院から逃げ帰りました。その時母は、『子供は命がけで産むものだ。お前がその気なら何も言わない』と、産ませてくれました。その後、その子が生後5ヶ月の時、子供を置いて結核病院に入院となった日、母乳でしか子育てをした事のない母は、病院の帰り道薬局に寄って、『子供をミルクで育てる方法』を真剣に聞いていましたが、『昔は、オモユでも育つものだったから、、』と、私を見て、笑ってくれました。 気丈な母は、私が退院してからしばらく同居してくれましたが、どうしても泣き止まない子に困り果てて『どげんしたの!』と怒ったときは、『言葉もわからない子に聞いて、何が解る!。熱を測れ!』ときつく怒られ、『子供の泣く原因が解らないときは、先ず熱を測れ。特に夏場の熱は、間髪をいれず、急いで病院に連れて行け。』と教わりました。
その後、子供が2歳の夏疫痢に感染したとき、この母の注意を即、実行して、子供は助かりましたが、お隣は2人のお子さんを前後して亡くされました。『お母さんが悪かった!お母さんが悪かった!』と、子供さんに取りすがって泣かれたあの悲痛な声!。薄い壁越しに、私は子供を抱きしめて、、今でも、地獄をみた想いです。
昭和29年でしたが、隔離病舎に『クロロマイセチン』という薬しかなく、薬の効果が間に合わなかったのです。
 私が66歳の時、96歳の母の最期を看取りましたが、母は口癖に『食べ物は腹八分。子供はどの子であれ、誰の子であれ、みんな大事に育てよ。誰が、どの子が何時、役に立つかわからない』と、何時も私に限らず、誰にでも言い聞かせておりました。 
長い年月をかけて進化してきた、生活の知恵や工夫の言い伝えが、核家族で途切れてしまったのではないでしょうか。 
そして、豊かで、何やら寒々とした時代になったような、今の異常気象のような、、、。工場裏の里山で子育てしている狸でさえ、必死で子育てしているのに、、。可と言って、子供を『赤ちゃんポスト』に託す母親も又、地獄でしょうし、、、。
寒々とした日で、突風が楠の葉を舞い散らし、稲妻がピラピラ!と神社の空を裂き、冷たい雨とヒョウが、車の屋根を叩いて走り、、、心底寒い日曜日でした。
今日は良い天気です。 シャクナゲツツジも満開で、山藤の花が、栗の樹につかまってテッペンまで伸び、素朴な花を、栗の樹いっぱい咲かせています。

 

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4月14日 (土)   5月の花 藤の花が咲きました

 梅園のワラビも葉が開き始め、5月の花だった藤の花がきれいに咲きました。 梅もあと、30日足らずで収穫が始まります。 梅は、2月下旬花が咲いて、5月の10日頃は収穫を初め、先ず梅肉エキスの加工を10日〜15日間、その頃になりますと、青梅も熟して色づきますので、完熟しただけづつ、拾って梅干に漬け込みます。
子供の頃病弱で、一人寝ている事がおおかったのですが、障子を開けて、庭先の梅の若緑の葉陰で、日に日に大きく、丸くなっていく梅の実が、私の子守でした。 若緑の透き通るような明るい葉陰の丸い梅の実が、私の相手をしてくれました。 その次に柿の花が咲き、青い実が同じように若緑の葉陰で大きくなりながら、私を慰めてくれたのを思い出します。 あの頃の病弱な自分があって、今の元気いっぱいの自分があって、、、本当に手を尽くしてくれた両親や祖父母を思い出し、梅干や梅肉エキスつくりに、新たなやる気が湧いてきます。

今年は梅が元気で、左の写真は、一昨年の台風で裂かれ、倒れたまま実をいっぱいつけた老木。 真ん中は、昔なつかしい、大きく丸くなっていく葉陰の梅。 右はもう咲いてしまった紫の藤の花です。

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4月9日 (月)   梅の免疫力

 平成17年の台風で、梅は葉を吹きちぎられ、体力も栄養の蓄積も出来なかったところに、18年(昨年)の異常気象に翻弄されて、病気で新芽を腐らせるもの、梅の実がすっかり落ちてしまった樹など、本当に無残な姿でした。 『今年はゆっくり休んで、来年考えよう』と、梅と話し合って今年を待ちました。 今年もまた、異常気象でしたが、今年は下の写真のように、大変な豊作です。もう4月9日ですから、収穫前の台風さえ来なければ、昨年の痛手は一息つけると思います。梅園を見回るたびに、『頑張ったね!、たいしたものだ!』と挨拶を交わしながら、梅は私の戦友だと実感します。
左は、すずなりの『光友1号』。真ん中は『雲水2世』。右は『鶯宿梅』。全部在来種です。

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4月8日 (日)   特攻隊の慰霊祭

 4月6日は、都城から出撃された方々の慰霊祭でした。 終戦直後は何がどうなっていくのか、どうなったのか、混乱のなかで右往左往する間は良かったのですが、だんだん世の中が落ち着いてきて、復興が始まり、海外からの引揚者も帰って来られ、毎晩ラジオで『尋ね人の時間』のテーマソングが夜の部屋に流れ出すと、何時の頃からか帰って来ない特攻隊の方々が思い出されて、『何時まで待っても絶対帰って来ない』人々が脳裏に焼きつき、笑えない日々が続き、一人で草を抜きながらポロポロ涙を流し、、、今思い出しても涙がこぼれます。 
 戦争は何時だって悪いに決まっている、、、。しかし、純粋な人の気持ち、たつた一つの命は『良かった!悪かった!』と言えるものではないし、その時代を生きてこなかった人に、理解できることでもないと、せめてこの日は、一緒に生きた日々を想い祈ります。


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