Diary 2008. 6
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6月22日 (日)   私の生きる 原点

 何の気なしにテレビをつけると、財津一郎の『私の子供の頃』の番組。 そのまま自分の子供の頃とぴったり重なり、気がつくと涙ボロボロ、、。自分の少女時代がぴったり重なりました。 終戦前後の数年間、それぞれの場所で、それなりに、ある限りの辛抱努力をしながら、人は『生きる』最善を尽くした時代だった事、自分の”生きる”原点・基礎が出来た時代だったことに気づきました。
戦時中は出征したご主人に代わって農作業を手伝い、十八・十九歳で帰る事のない飛行に飛び立つ特攻隊を見送り、戦後は賠償金支払いのため、息を呑む重税に 『払うしかない、働くしか方法はないのだ』 と働く母に従い、本当に今思いだしてもつい、奮い立ちそうになるほど、一生懸命働いた。 住み込み従業員の他に、食べ物を貰いに来る幼い兄弟を引き取ったりする母、家族は六人なのに、昼食と夕食は十三人から十四人分の大釜と大鍋です。 家業は製油業で戦争が始まった年父が急死し、母は、余剰金で農地を買い足して自給自足の生計でしたが、毎日の食材調達は並大抵ではありませんでした。 米不足を補うため、山を開墾して野稲(陸稲)も作り、畑では小麦・大麦・じゃがいも・里芋・きくいも等、その他に、季節の野菜もすべてなのです。 『いくら下働きを使っても、そんなに作れない、用意できな』、と ”ベソをかく” 私を、母は誰もいない昼間の仏壇の前に座らせ、 『日本は戦争に負けたんだ。何人もの兵隊さんが戦死した。生き残った者が働かないとどうなる。あんたは高等教育も受けたんだよ』 と。 弱音を吐いた私は、膝に置いた手の甲にポタポタ涙を落としながら顔もあげられず、何度も頷きながら、夜明けの飛行場を飛び立って行った、絶対帰ってくることのない特攻隊の人々にも併せて、万感をこめて 『ごめんなさい』 と反省しました。 仏壇の前に引き据えられ、懇々と諭されたり、ボカン!と怒られたりした事は、他にも何回かありましたが。 
私と母は、私が結核で子連れ離婚してからも、長い紆余屈折の人生を、母が九十六歳の天寿を全うした朝まで、一心同体のような人生でした。 ”喜びも悲しみも、共に、、” 何かの歌の文句のように、母と共に生きましたが、今朝、何だか改めて 『自分の原点』 に立ったような感動を覚えました。 年甲斐もなく熱い涙を、さめざめと流しましたが、心は晴れ晴れと生き返りました。 頑張ります。 皆は 『あんまり頑張るな、年を考えろ』 と言いますが、、、。


6月16日 (月)   お客様から

 埼玉の山田さまから、『バッキングに入ってくるお野菜の それぞれの味のしっかりして美味しい事、とくに ニラ が一番でしょうか、、』 とお便りがありましたが、昨日のお便りは、東京から 『パッキン代わりの 人参をスティックにして食べましたら、果物みたいに美味しいでした』 とありました。 自然が育てた野菜だから美味しいのでしょう。
 自然と共生しながら野菜を育てることは、草や雨や日照りとの闘いみたいな連続で、従業員に 『悪いかな?』 と思うこともしばしばです。 しかし私達も、お客様との助け合いなので、何時も社員には 『お客様の立場になって考えること、相手の立場に立って答えはだすように』 と教えておりますが、昔から私は、辛い仕事だけは社員と一緒に作業をしてきましたので、この頃、年を取りすぎて、辛い農作業を、社員と一緒に出来なくなった事が心苦しくなってきました。 しかし、無理すると長生きできませんし、まだまだ、後継者達に引き継いでおく事がたくさんありますので、一番の私の仕事は 『元気で長生きすること』 と決めました。 今年も元気で、約一ヶ月間の収穫と加工が終わりに近づきました。 森羅万象に深く感謝です。
左は 多分今年最後の落ち梅。 次は 雨の中 私達に届いたプレゼントですが、その包み みどりのあしらいが、何とも嬉しくて、、、。ご馳走になる前に ほのぼのと、疲れた心身がほっこりして、包みを囲んで しばらく眺めていました。

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6月15日 (日)   今日は 植樹祭

 今日は植樹祭の日です。 私達の 『どんぐり千年の森』 活動も今年で12年目となり、今回も 『緑化推進運動功労者内閣総理大臣賞』 を受賞しました。 初代の鳥集会長は、植樹1号地の八年目に湧き出した、森の流れのセセラギは聞かれないまま永眠され、未だに残念ですが 『永世会長』 となられ、『今出来ること 自分達に出来ること そして未来につながること』 この発想からうまれた身近な環境つくり活動の 『山の神』 になられたのです。
『株券500円』 の直接の利益の還元はありませんが、先人から引き継いできた命を、未来へ引き継ぐための環境づくり活動をおこなう心が、それぞれの財産となる活動です。

私は、先人の知恵の 『梅干』 と 『梅肉エキス』 で今日までの命を頂きました。
6月10日の『宮崎日日新聞』のコラムに、外前田支社長の記事が出ていました。
『南郷町の甲斐田万知子さんはこの二十年、梅肉エキスを作っている。常備薬として家族も重宝し、自身も『夏ばて知らず』と話す。 梅肉エキスといえば、都城の紅梅園が有名だ。同園代表の徳重文子さん(79)は子供時代、祖父母からエキス作りを習った。彼女によれば、梅肉エキスは日清、日露戦争で医薬品として用いられ、起源は江戸時代までさかのぼる。 その作り方は全国共通らしい。「ごぜさん(盲目の旅芸人)たちが伝えたからだ」と徳重さんはみる。が、今や作る人もあまりいなくなつた。近代日本は先祖伝来の民間薬をあっさり捨て、西洋薬を取った。 それは先祖の知恵と歴史を捨てることでもあろう。』
とありました。 新聞を読みながら、目も心もウルウルしてきました。 私が必死で伝え残そうとしている事を、言いたいことを伝えてくださって、お会いした事もありませんが、『先祖の知恵と歴史を捨てることでもあろう』 とありましたが、それこそ、してはならないこと、勿体ないことです。 何より嬉しく心から感謝し、心で両手をあわせました。


6月14日 (土)   4個の繭

 今月の2日 ご紹介しました京都からのお蚕さん達、生き残り4匹が無事 繭になりました。
3日の夕方桑を食べさせたとき、一匹が行方不明になっていましたが、5日の朝、箱の端で絹糸を出しながら、繭作りを始めている蚕を見て、何処かで繭作りを始めたとわかりました。 そして、6日と8日に、それぞれ繭を作り始めました。 一匹は桑の葉の下の見えないところで繭を作っています。 
ホッとしましたが、今度はサナギから蛾になつたら どうしましょう。 溜息が出ます。
写真左が繭になった蚕です。 真ん中は梅収穫とエキス加工に一生懸命頑張っているうちに、スモモの ”綾錦” は小鳥に食べられて、葉陰に残っていた虫食いと青い ”うらなり” の4個です。 残念無念の想いです。 右は、今年初めて実をつけた柿ですが、柿の名前は忘れました。 秋になり柿が熟れたら 解ると思います。 

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6月2日 (月)   京都から はるばる蚕(かいこ)

 先月の22日、京都の絹織物問屋 『塩野屋』 のご一行がお出でになった時、お土産にと黄色い繭(まゆ)を作るとかで、お蚕さんも頂きました。 まだ1センチ程のチッチャイ赤ちゃん蚕です。 この忙しい最中に 『もう! いや!』 と思ったものの生き物です。 さいわい桑の木が1本あったから良かったものの、大変です。
京都と南九州、環境の違い、蚕はまだ赤ちゃん、しかも白い繭を作る蚕に、人間の都合で黄色い繭を作るようにされた蚕。 多分弱いだろうと思うと、オチオチしておれず、毎朝一番に蚕、午前のお茶の時間も蚕から先、昼も午後も、夕方も夜の帰宅時間も9時頃に見回って帰り、朝は先ず ”生き残りの蚕” を確かめながら桑の葉を与える毎日で、3日目と4日目が、蚕の生と死の境目になりました。 今日の時点で10匹の蚕が、やっと半数を割って4匹が生き残りました。 

左の写真は、やがてこの蚕たちが作る黄色の繭。 真ん中は、頂いた日の赤ちゃん蚕。 右は頂いて10目の昨日の生き残りの蚕たち4匹です。
毎日 びっくりするほど大きくなっていきますが、無事に命を全うしてくれる事を、心底 祈るのみです。

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6月1日 (日)   梅干漬けの 追い込み 

 梅の収穫期間は、5ヘクタールでも、その10分の1の50aでも20日間しかありません。 5月下旬は梅肉エキスに加工し、6月になると梅干漬けの季節。 梅は浅黄色に熟れ始めて梅園いっぱいに香たち、もう待ったなして落ち始めますから、鮮度との戦いに夜も日もない忙しさになります。 自宅の裏山には栗の花が咲き、忙しさに草ぼうぼうの庭には ”ホタル袋” の花が咲いているのに、私が走りながら見やるだけです。

熟れ始めた梅と、 屋根より高くなった裏山の栗の花盛り。 草の中から季節を忘れず咲いたホタルブクロの花。

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