7月26日 (木)
牛と暮らした 夢のあと
牧場を始めて四年が過ぎた頃、牛を出荷していた大阪中央畜産へ招待された折、誘われるまま何の気なしに、屠場の現場を見てしまいました。 わずか一瞬でしたが、あの広い屠場の地獄は、あの瞬間見えるはずもない四方八方の隅々まで、鮮明に脳裏に焼きつき、立ちすくんでしまいました。 その時から、天上のようだった牧場での生活はが続けられなくなり、以前から観光牧場として、ご相談のあった林田観光に売却、五ヵ年計画の牧場は、当初の目的はすでに達成していたので、四年半で切り上げ、”下界”?の梅園に帰のました。 牧場を去る決心をしてから、一番見晴らしの良い二千坪の場所に、牛達の【供養塔】として、欅と山紅葉を屠場に送った牛の数だけ植えて帰りましたが、盆栽ブームの頃姿形の良い樹は、特に山紅葉はずいぶん盗られ、今は程よいバランスで、落葉樹の林で大きくなりました。 その後、栗の岳分校は廃校となり、観光開発が進むにつれて、供養の林は何回となく”買収”の相談がありましたが、【頑固婆バー】と言われても残しましたが、当たり前です。
今、初夏は若葉秋は紅葉と、四季を通じて高原らしい景観を見せています。 私が暮らした唯一の建物、飼料倉庫は、丁度四十年目の今、茫々とした草の中で、ようやく屋根が崩れ始めています。 孟宗竹の柱にトタン屋根の追い込み舎は、ブロックの餌槽と基礎だけが残り、とてもあの巨体の牛が、数十頭も暮らしていたとは思えない、茫々の草原の中です。
|
7月22日 (日)
暖かい幸せ その三
牧場で牛と暮らした日々は、四年半。 四回の冬を過ごしました。 暮らした家は、飼料倉庫の西側に八坪。 その中に水洗トイレ、 一寸大型の冷蔵庫と簡単な台所、洗濯機。 大きめの石油ストーブ。 部屋は一畳の押入れと四畳の一間。 お風呂だけは贅沢な 地獄や蒸気の蒸し風呂付き、自然噴出の 【栗野岳温泉】。朝仕事に掛かる前に、車に着替えを用意して、仕事が終り次第 夜の九時でも過ぎでも外の温泉に、入浴させて頂けたのです。 これが最高の癒しでした。 【今、しっかりお礼はしたのかな? と、心配になってきました】。 凍えるような真冬でも、体はポカポカと温まり、牧場を部屋まで帰りながら、仰ぐ夜空は満天の星。 手の届きそうな所まで降りて輝くのです。 木枯らしの夜は、枯れてもくっ付いている かしわの葉が、カサカサと一晩中北風に合わせて葉づれの音を聞かせてくれるし、真空のように物音一つしない、んしんと凍る夜は、倉庫の下にあった仕上げ牛の追い込み牛舎から、 『フーッ! フーッ! 』と、大きな寝息がしたり、『ブッブーッ! ブッ! ブッー ブーッ! 』と、大きなオナラが聞こえてきたり、 体重六百キロ前後の巨体から発する寝息やオナラは、とてもダイナミックで ”牛達と一緒に 包まれている” と言う安心感で、とても幸せでした。 春と夏はいきなり雲がかかったり、切れたりして、びっしょり濡れる時もあれば、蜃気楼の中にいるような、雲の切れ間に夢のような、町や田圃が浮かんで見えたり、とにかく 梅の事が無ければ、下界の娑婆には帰りたくなかったです。
|
7月21日 (土)
暖かい幸せ その二
牧場に、本格的に子牛を導入し始めて九ヶ月、標高六百四十の九月の高原では、冬の乾燥草の用意も終わり、隣接している小学校の分校では、村全体をひっくるめて運動会がありました。小学生は六人、先生は二人。 最高の個人教育だと羨ましがりながら、私達も全員四人とも参加。集落でも子供がいる、いないに関わらず、全員走ったり団体競技に参加したり、。午後は、昼食をしながら村中の親睦会に早変わり、先ず酒が全員を回り始めました。 初めての年なので、牧場の元地主で、従業員の一人を親睦のため残し、私達は牛の世話に帰り、餌や水の見回りをすませ、私一人は破れそうな牧柵の修理に出掛けました。 当初牧場には 【朝霧牧場】と命名するつもりだったのに、何時の間にか通称 【ゴケ(後家) 牧場】 となっており、わけは、牧場の牧柵もゆらゆらと好い加減、張り巡らされた有刺鉄線も ”ダラリ” と垂れ、そこから外に出て行かない牛も 【ゴケの牛】なり、、。 といった理由だったようでが、私自身も【出戻り後家】 だつたのです。 ともあれ、隣の牧場主に『牧柵が倒れかけている』 と、運動会で会った時耳打ちされ、『有難う すぐ修理するから』 と帰って来たので、修理にでかけました。 修理は手間取り、何時の間にか夕焼けの中を、酔っ払って牧場を横切って帰る途中、私を見付けた河野爺さんが、『都城の女は何時寝るのか? 朝から晩まで働いて、金を何するんだ?』 等と大声で話しかける、、私も負けずに 『極楽に行けるよう 閻魔様への、(賄賂)を貯めるの!』 と、大声で調子を合わせる、、。しばらくして、『お前は 牛もよう躾けているなー! 後ろを見てみろ!』 と大声。 時間が無いので修理に専念していたら、 『後ろ!』 と河野さんの大声に振り向くと、何時の間に集まったのか、十頭余りの牛達が、私の後ろを輪になって囲み、前半身を低くして、あごを引き角を前に構えて、河野さんを狙っているのです。 私もびっくりしました。 牛達は、私が河野さんに ”虐められている” と思ったのでしょう。 一人で必死だった私は、嬉しくて、夕日の中のあの日の出来事は、昨日のように思い出されます。 牛達は生まれてから九ヶ月、私と暮らした日々が、私を 同族 と思ってくれたのです。 それから約三年、牛と一緒に暮らした日々は、本当にシンプルで、心豊かに暮らせた日々で、天上のような毎日だったように思えます。
|
7月20日 (金)
暖かい 最高の幸せ その一
昭和四十年、農協に勧められて卵の養鶏を始めました。 少しでも梅園経営の足しになればと始めた養鶏で、四十三年の初め、二百万の借金のため、梅園が、【二年以内に返済した場合は、元に返す】 と云う【特約】 付きで、農協に取られた事があります。 その時、【短期間に確実に儲かる】という仕事を目指し、肥育牛の牧場を計画。 【絶対条件】は、【二年以内に二百万儲かる】 事。 二晩の徹夜で5ヵ年計画書を作成、当時全国的な商社【東食】に私の全財産を担保に仮登記し、二千万の枠を確保、常時三百二十頭飼育、毎月十六頭出荷計画で牧場を始めました。 獣医だった兄は、【牛を、お前のバカな経営の犠牲にするな!】 と一喝、猛反対しましたが、前に進むしかない私の覚悟に、【人間は、動物の中で、一番愚かな動物だ。絶対お前が牛を管理するな。牛の後からついて行け】 と諭され、言われた通り絶対条件として守りました。 短期間の経営なので、施設は最小限度、生後一週間から約二ヶ月の子牛だけ、屋根だけの畜舎を用意し、出荷前六ヶ月間だけ、孟宗竹の柱にトタン屋根の追い込み小屋だけで開業、其の他の牛は年中放牧でした。 原野をそのまま牧場とし、土地の表土を守るため、開墾整地は止め、歩き回る牛の蹄で耕し、残った樹木はそのまま残しました。 雨の激しい夜や、昼間の暑い時は樹陰にたむろし、冬 零下十度位の雪の夜も、雪を被って外で平気でした。 或る日、二日ほど前から、同じ樹の下に同じように三頭か四頭いる牛に、不審に思い行って見ると、一頭の牛の鼻輪が樹の枝にひっかかって動けないため、グループのボス達が付きそっていたのです。 又、遠くの牧場の中腹で、同じ場所に四〜五頭の牛が移動しないので、【若しや?】 と行って見ると、一頭の牛が倒れており、街から獣医が上がってくるのに二時間以上かかり、経験の浅い獣医だつたのか、静脈注射を暖めもしないまま、いきなり冷たい注射で、牛はショック死。すると、見守っていたいた牛達は、追っ払っても、追っ払っても立ち去ろうとしません。 牛達に気付かされ、私はその時から牛に異常があれば、兄に電話で師事、早期発見のコツを学び、電話で現状を報告、状況に応じて兄から指示された通り、皮下注射等で処置し、事故牛をだしませんでした。 牛達によって、牛の本能かもしれませんが、暖かい素直な本当の愛を気付かされました。
|
7月18日 (水)
昔の自然を 今に
今日台風余波の激しい雨の中を、新卒求人のため久しぶりに高速道路経由で川南まで走りました。 雨しぶきの中を疾走して追い越す車に、昔懐かしい ”標語”を思い出しました。 【狭い日本 そんなに急いで 何処へ行く】 【そら走れ 次は地獄の 一丁目】 鹿児島へ行く 白浜海岸の所には、【白浜や 車飛び込む 水の音】 等など、あの頃の事故は、今に比べると可愛いものでした。 道路周辺の自然も、春真っ先に山桜が咲き、やがて新緑が萌え出し、蝉の声まで聞こえそうな真夏の森が過ぎて秋、宮崎なりの ”秋紅葉” の道路周辺の雑木林がありました。 私は必要にかられ、昭和三十年に運転免許を取得しましたが、その頃、砂利道でしたが、私の専用道路みたいなものでした。その後十年ほど経ってくると、車が増え、交通事故が増えだし、事故防止標語のたて看板が、あちこちに立つようになったのです。
帰り道、面接で会った若い人達の真剣な目を思い出し、次の世代はどんな社会が、自然環境が待っているのだろうと、やるせない不安。 今日のような荒れた、休息を感じさせない自然や、社会になってしまうのでは、、。 経済が豊かになって、人々の何が豊かになったのだろう、。 これは、私の昔への郷愁といった甘ったれたものではなく、寒々とした想いです。 日本伝統の賢い ”食の知恵” や、簡潔で無駄の無い ”梅の食文化” だけでも、昔のままに、何とか残せるように、せめて紅梅園だけでも、自分の残りの人生で何処まで出来るか、若い次世代のため、やれるところまででも、、と、切ない思いでいっぱいでした。 【人生で 一番大切なものは 時間】 と、常に 【一石二鳥】 を心に決めて、生きてきましたが、本当に時間がほしいです。 次世代のために。
|
7月15日 (日)
”ひぐらし” の今と昔
朝 五時になると、裏山から 蜩 の第一声が聞こえてきます。 昔に比べ 数はものすごく減ってきましたが、遠く近く 輪唱は変わりません。 食事に行くのでしょうか 六時になると、一旦消えます。 今年は雨ばかりでしたから、今頃 やっと本格的? になってきました。 真昼の暑い時間は潜み、夕方になると、涼しい夕風にのって急に聞こえてくるのです。 蜩は夕風に乗ってくる? と思うほど、夕方は決まって涼しい風と共に聞こえてきます。 私は、蜩にいっぱい思いでがあるので、毎年心待ちしているのですが、毎年決まって第一声は 六月十六日か 十七日なのです。 今年は三日遅れて、たったの一匹で、儚いような、私には 『今年も着たからね』 と、わざわざ知らせてくれているように聞こえました。 昔子供の頃、朝早く 先ず蜩に起こされ、次に ”アカショウビン”だったようです。 病弱で一人寝ている日は、夕方蜩が鳴きだすと誰かが帰ってきました。 又、暑い日でも、夕立が過ぎると、一斉に四方八歩の山から 蜩の大輪唱が沸き起こっていましたが、”うるさい” と思ったことは一度もありませんでした。 賑やかに 涼しく聞こえる日もあれば、同じ 大輪唱なのに、涙に枕が濡れるほど、寂しいと言うか、人恋しいと言うかそんな時もありました。 夕方 晴れた日の 西の茜空は昔と変わらないのに、夕風に乗ってくる 蜩 の声は消えてしまった、、、そんな日は、絶対来ませんように、 せめて、今の”申し訳”的な数でもいいですから、神様 仏様 守って下さいますように、、、と、祈りたい気持ちです。
|
7月13日 (金)
地球温暖化の 恐怖
夜明け方から大変な雷鳴と豪雨。 芽が出たばかりのほうれん草と人参は、雨に叩かれて又 種の撒き直しでしょう。 私共の畑は 土壌が深いので、雨が止み次第 雨水は土壌に吸い込まれて引きますが、他の畑は、雨水が長時間溜まって、作物が傷みます。 最近の風水害のニュースを見る度に、世界の地球温暖化対策が遅々として進まない事に、居てもたったもおれない気がします。 平成五年、理学博士の中嶋常允先生が、【このまま温暖化が進むと、二十年先は永久凍土や氷河が溶け出し、海水の濃度が変わり片寄る。 すると海流も変わり、乾燥と豪雨や台風等 両極端にかたより、食料不足もおこる。 食料不足は戦争を引き起こしかねない。 人間や動物も栄養の偏りやミネラル不足から安定感を失って、喧嘩や争いが恒常化する、】と、おっしゃってましたが、本当にそうなっていくように思えます。
経済も必要でしょうが、自然の猛威はせっかく築いた施設も資産も、一夜のうちに流して、壊して持ち去ってしまいます。 次世代の子供達の事も心配です。 地球は一つ、世界中が一緒です。自然の摂理は換えられませんし、バランスは絶対必要だと思います。 今なら間に合いそうな気がします。何とかならないものでしょうか。
|
7月7日 (土)
責任の 重さ
朝 携帯で目が覚め、見ると 【着信8回】 びっくりして開いてみると、娘から連続着信。 ビール好きで高血圧なのに、病気をした事のなかった娘は、三年前、手術も出来ない箇所の脳内出血で、左半身不随なのです。 『どうした!』 と叫ぶと、 『なによ! そっちがどうしたのよ! 電話にもでないで! 心配するじゃないの! 』と、おこられました。 娘の話では、明け方ひっきりなしの大変な ”落雷”で、娘の所から歩いて十分の私の所に、集中していたのだそうです。 ベッドの上で見回すと、すべて停電しています。 しかし、私は落雷の事は、全く覚えていません。 小さい時から、皆さんでしょうが雷が一番怖かったし、今でも変わりません。 目が醒めず本当に助かったと感謝しました。 先月末、『週間文春』 に掲載されました、梅干のランキングで、『第一位 徳重紅梅園の【鶯宿梅梅干】』 というのを目にしてから、責任の重さを ”ずっしり” と感じてきました。 梅干の成分や、無添加で塩分十一%の梅干には、それなりの努力と 気遣い等 気を抜いては、失敗するのです。 生産の段階、収穫のタイミング、洗って 水きりして、塩のまぶし方、重石の分量など等、一つ手を抜いても、手落ちがあってもいけません。 二代目達は、しっかり心得ているだろうか。 充分理解できているのだろか、、 等など、疲れ果てていたのでしょう。 眠れぬ程心配で、雷が落ちても目が覚めないほど疲れる位なら、、、覚悟しました。 【うるさい社長】でも【くどいボケ社長】 でも良いです。 梅雨が上がったら、【後顧の憂い無く】 土に還れるように、徹底して、もう一度教え 伝えようと決心しました。 ”来週は 晴れますように” 祈るばかりです。
|
|