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4月7日 (土)
梅園を助けてくれた 牛たち
昭和43年のこと、農協の借入れ金延滞のため、梅園は差し押さえられ、農協へ仮登記された事がありました。 38歳だった私は働き盛り。 『越える道は必ずあるはずだ』と、霧島神社近くの御池の木陰に車を止め、【梅は生産出来るまで十年以上かかる】事を理解してくれない 農協の理事さんたちに、 ”残念” の涙をポロポロこぼしながら、『梅園を取られてたまるか!』 何とかしなければ、、と、心の神仏に 『どんな苦労も、どんな試練も必ず乗り越えますから、力と知恵を貸して下さい』と、 ”苦しい時の神頼み” でしょうが、必死にすがって思い立ったのが、一年半で収益の上がる牛の肥育でした。 農協とは、2年間猶予の約束をとり、1年間 宮崎県と鹿児島県の畜産試験場を視察しながら、3頭の牛を飼って実験勉強しました。 今度は失敗できません。 五ヵ年計画書を作成して商社に相談したところ、計画通り 常時三百二十頭飼育しながら、毎月十六頭の出荷計画は、霧島山麓の栗野の原野で実現、牛の肥育牧場の経営で、梅園は助かったのです。 牧場で4年半経ったときは、『無かったつもり』の ”つもり貯金” が約2千万になり、牧場は売却して、梅の専業に立ち返ることができました。 あの苦しい時、この肥育牧場を思い立ったのは、私が母親になって25才の時、通りかかった屠場の入り口でトラックから降ろされる、ハムにされるという 生まれて十日前後の、可愛い乳牛の雄牛と出会いましたが、それを思い出したのです。 あの時、 『折角生まれてきたのに、せめて半年でも、野山を走らせてからに、出来ないものか、、』 と、可愛想でたまらず、折に触れては思い出していました。 『そうだ!一石二鳥!』。 神仏は、私に最高の方法を暗示して下さいました。 大好きな大自然の高原で、生まれて一週間から十日位の子牛に、洗濯機で溶かした粉ミルクを、小さいバケツで指を乳首代わりに飲ませながら育て、理想どおり栗野の原野に放牧、肉用牛で出荷しました。 しかし、自分でミルクから育てた牛を、屠場に送る辛さは、他の人には解りません。 目的が達成したとき、計画は半年切り上げて牧場は売却。 屠場に送った約700頭の牛の供養のため、現地に二千坪の土地を残し、山紅葉と欅を約800本植えて、梅園にもどりました。 あれから四十年余、牛の寝息と大きなオナラ、それに高原を吹き渡る風の音と、手の届きそうな満天の星。 牛たちに守られて暮らした日々は、私の人生の ”最高峰” でした。 何時思出だしても何故か、 【良かったなー】 と思うのですが、相手が ”牛” ”家畜” だったからでしょうか。 私の ”使命” である梅園を救ってくれたから?? 解りません。
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