Diary 2007. 12
12月27日 (木)
目白の 柿の木パーテイ
明日は雨らしい予報に、朝早くからお洗濯でした。 3ワッシャー洗って干していると、目白が柿の木のてっぺんや、近くの椿の花の中など、大勢でとても賑やかに鳴き交わしているので、思わず手が止まりました。
昔子供の頃、、私が5歳前後、すぐ上の兄が小学5〜6年生、妹は2歳で母のところ。 兄が0歳の弟をおんぶし、綿入りねんねこを着て、自作の目白用の竹籠をぶら下げ、兄とよく目白取りに出かけました。
私は、兄の後から竹籠持ちや、兄が椿の木に登って ”おとり”の目白の入った籠を椿の枝に掛ける時の、子守担当でした。 時々遊びに夢中になり、お乳の時間をすっかり忘れていた時など、母からすごく叱られたのを思い出す。
又、目白の鳴き方にはいろいろの種類があり、『あっ!今のは”タックワ(達歌?)”』、『今度のは”クワゲン(過言?)”だ』『嫌、”キョロメキ(?)”じゃ!』 等と、鳴き声の種類があり、私は覚えようと必死で聞いていたのを思い出します。
昔は良かった。 昔の子供達は、1日のうちに、何度も喧嘩したり仲直りしたり、夢中で親の目をくぐり抜けて、遊んだものでした。 家庭にによつては、手伝いを済ませないと遊びに行けない子供もいて、そんな時は、全員で手伝ってすませてから、遊ぶこともありました。
左の写真は、殆ど柿を食べつくしても、群がっています。ヒヨドリが来ると真ん中のように、隣の楡の木に逃げ、ヒヨドリが去ると又、隣の柿に飛び移ってパーティ。目白は小さいですが、よく見ると、、、。
12月20日 (木)
今日は冬らしい 冬
昨日は、1日中曇り日和で、休憩時間も寒くて身の置き場がなく、お茶一杯飲んですぐ仕事にかかるほどの、寒さでした。
しかし、梅達はすっかり目が覚めたみたいで、蕾が逞しくなったように見えました。 梅は、寒い冬がきて初めて、早春に向け 蕾が動き始めるのです。
今朝は、会社の中で 1度。 しかし、陽が上がるとたちまち気温が上がり、ほんとに働きやすい一日になりました。 庭に出ると、目白がいっぱい柿の木のテッペンで、残った柿をつついているので、慌ててデジカメに撮りました。 左から3個目の柿にとまって、盛んに突いています。 数羽いるのですが、はっきり見えるのは1羽だけ。
梅畑の剪定作業につくと、枯れたすすきの中に、鮮やかな山茶花の花が陽に映えて目に入りました。 一昨年防風垣をかねて、実をとるために植えたのですが、今年の草の猛威に見えなくなっていて、忘れていました。 花では、蜜蜂の地蜂が、盛んに花粉を集めています。 地蜂の蜜蜂は小型で、養蜂家の洋蜂の半分も無い体で、陽の照るうちにと、一生懸命です。
正月までには剪定を済ませたいと、一生懸命頑張るのですが、、、。 指の節々が痛み、肩が痛いやら、背中が張るやら、帰りの車を運転しながら、疲れと気のゆるみから、涙まで誘って ”生あくび”が引っ切り無しにでますが、帰り着くとシャンとなるのです。 人間 健康が一番と、感謝しながら、命の次に大切なのは、『限りのある人生の時間』 だと、つくづく感じます。
12月13日 (木)
今年の韓字は 偽
今年の韓字は、『偽』 と決まったそうです。
昔、『偽 いつわり』 とは、「人の為」 と云うのを合わせて 『偽』 となる。 実は 「人の為に」 と思ってした事は、「自分の為なのだよ。 人の為と思っているのは、「偽 ウソ」なのだよ」 と、言う事だと、聞かされた事がありました。
私 この年になって心から 『確かに! 納得!』 しました。
『人の為に』 『自分の為に』 みんな、どこまで意識して生きているのでしょうか。 先ず、『
自分自身は? 』と、改めて考えさせられました。
左は、霧島連山の中の火口湖 『御池』 を囲む太古からの自然林で、巨木も若木も杉も銀杏も、萱の木までも共存の、自然林です。 真ん中は、霧島東神社から、下の社務所を通して、森の向こうに、御池が静まりかえつています。 右は、自然林の中の、昔々の切り株で、切り株の凹みのふところに、小さな木の芽が2本、抱かれるように生えていました。
この神社は、戦後の混乱時代から、殆ど毎月1度、自分を見つめ直すために参拝している神社です。
12月8日 (土)
忘れられない 今日の日
今日は女学生時代の、針供養の日、そして、太平洋戦争が始まった日でもあり、12月8日と聞いただけで、胸迫る日です。
小学6年生の12月8日、太平洋戦争が始まり、夢いっぱいの女学校に入学して1年生の12月8日 ”針供養”の日。 「水仙の ほのかに匂う床の間に 飾れる今日の 針供養かな」 、講堂の壇上で、先輩の朗々と詠われた声。 明けて3月、お雛祭りの始めて見たきらびやかな雛壇を最後に、私達の女学生時代は、太平洋戦争の真っ只中に入っていきました。
今日の早朝、ラジオの 「心の時代」 の放送で、長崎で被爆され、心の負い目から原水爆禁止運動に入っていかれた方の、お話を聞きましたが、私より2年下の方で、自分と重なり合うものがあり、午前4時台でしたが、何時の間にかベッドに座り直っておりました。
ここ都城からも、昭和19年、特別攻撃隊が出撃して、私も見送りました。 昭和20年4月6日都城西飛行場から第一陣が出撃、7月1日出撃の宇佐美少尉は18歳、少年飛行兵14期生、全国で海軍2千5百3十5人、陸軍1千8百4十4人と聞いております。
終戦後 毎日毎日多くの方々が舞鶴港に帰国されるのに、あの見送った若い同世代の特攻隊の方々は、何時まで待っても、帰って来られません。 解りきったことなのに、諦め切れないものがあり、年とともに、あの方々の命の重さは、形を変えながら私の想いの中で、薄れることはありません。
写真左は 庭にも屋敷にも一杯ある日本水仙の中からやっと探し出した、たった1本のまだ硬い水仙の蕾です。 女学生の針供養の頃、水仙の花は真っ盛りでした。 温暖化のせいでしょう。 南天と山茶花の紅は、変わらないように思えます。
12月7日 (金)
いよいよ 師走
1800本の梅剪定作業の予定表は、しっかり考えて作ったのに、何故こんなにずれ込むのか、、?。 ”みんな一生懸命頑張っているのに” と思う程、年末は迫ってきました。
『せめて年末年始だけは、ゆつたりと過ごしたい』 と考え、頑張りすぎると年には勝てず、夕方はあちこちが痛みます。
夕方疲れて ”生あくび” だらだら帰ってきたところに、顧客の矢野さんからご注文のお電話で、『社長さんに代わって!』 とのこと、受話器を代わったとたん、 『社長さんお元気?!。 元気にしててね。 今ね、自然食品の2代目は、殆ど止めていくんだわ。 紅梅園だけは頑張ってね。 おたくの、梅肉エキスのお陰で、命をつないでいるようなものよ。 私が、自分の体で体験して実証しているからね、、、。 2代目にしっかり引き継いで頂戴よ。 頼んだわね!』 と、お元気な聞き慣れたお声で、激励叱咤されました。
『2代目は殆ど止める』との言葉に、シャキッ!となりました。 紅梅園も世代交代に入っており、半世紀50歳年下の後継者と、それを支える社員は、まだ社会の厳しさを知らない、卒業と同時に入社した社員たちです。
価値観の違いからくるジレンマ。 汚れていない自覚してない、自己中心的な考えや希望。 孫同然の社員を、どう導いていけば良いのか。 無農薬で生産する難しさや、無添加で加工販売する品質管理の厳しさなど、又、お客様へのサービスとはどうゆう事か、等々 弱っていく自分の体力や知力を考えた末、45歳になる管理のベテラン女性を、他社から引き抜いて対応する事にしました。 その女性の勤務していた会社は、社員約150名の大きい会社ですから、彼女を引き抜いたからとて、会社経営に影響する事はないと、自問自答して、自分の後ろめたさを納得させたのです。
写真は左から、梅園と今にも散りそうな黄金のギンナンに囲まれた工場。 一夜にして散った通路の黄金落葉。 右は 台風で八つ裂きにされながら、立ち直りつつある、古老のような鶯宿梅、話し掛けながら剪定しました。
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