Diary 2009. 1
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1月29日 (木)   今年初の 報恩感謝の日

 昔 母や祖母から、よく 『〔孝行したい時には 親は無し〕 〔親の恩は 子供へ〕 と言ってね、若い時 苦しい時に受けた恩を返せるようになった時は、もう親も、お世話になった人も亡くなって、恩返しは出来ない、、、だから、受けた親の恩は、子供へ、 人様から受けた恩は、又次の人へ ご縁のあった人に、恩返ししていくものだ』 と、聞かされていましたが、確かにそうです。
紅梅園もここまで来るのに、ずいぶん多くの方々のお世話になりました。 今日はその中の一人、きさ子さんの31回忌の 供養の日です。 
昭和40年代に入り、梅の無農薬生産の厳しさから、生活は当分全く成り立たないと判断し、牛の肥育で生活と梅園を支えようと、霧島山麓の栗野で牧場経営の5ヵ年計画を立てました。 昭和43年、商社〔東食〕のバックアップで、常時320頭肥育、毎月16頭の出荷計画で、放牧と追い込みの牧場を開業しましたが、牛は生き物。 320頭の命を世話していると、牛も家族と一緒で、本当に夜も昼もない、気の抜けない、必死の毎日でした。
その間、この都城で梅園を守ってくれた人が、きさ子さんでした。 昭和48年目的を達成し、牧場を売却して梅園の経営にもどるまで、私を支えてくれた人です。 梅園も2.6ヘクタールから、3.7ヘクタールになり、梅の無農薬生産は、何とかクリヤーしましたが、今度は見掛けの悪い青梅は市場価格が安く、又もや経営が成り立たず51年の秋、〔スナック梅〕を開店、昼間は梅の生産に、夜はスナックで生活費や人件費を稼ぎました。 彼女はそんな私の ドタバタ の最中、53年の夏、胃癌が腹膜まで転移し、腹水がたまり出してから癌の末期と判り、余命3ヶ月との宣告を半年生き延びて、逝ってしまいました。
一晩置き位に午前1時から1時半、寝静まった病室に、どんなにそっと入って行っても、看病人も気づかないのに、顔をのぞくと、『心配せんでもよかよ。』 とやっとの声、、。
恩返しは全く出来ないままの 別れでした。


1月28日 (水)   久しぶりの 梅園

 ”温暖化” とか”暖冬” と心配していたら、今年はなんと寒い事でしょう。 剪定だ! 枝の始末よ! 元気の無い梅に追肥も充分に、、と、花見の準備もあり、少し張り切り過ぎたのか、風邪をこじらせてしまいました。
今日、久しぶりに梅園に行ってみると、蜜蜂は大丈夫でしたが、松の木にあった ”赤蜂の”巣は、鳥につつかれたのか崩れかけておりました。 陽だまりには ”よもぎ”が僅かに芽だち初め、梅の蕾もふくらみ始めて、早春の気配が満ち満ちていましたが、さすかに近年の早春に比べると遅れております。 しかし、今年が当たり前で、蕾にも力が見えるようです。 きっと今年の花見はきれいだろうと、わくわくしてきました。

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1月3日 (土)   日本蜜蜂の 棲み家の安定を

 早春の三寒四温の中で梅の花が咲き始めますと、梅園内は高い青空のした、鶯宿梅のピンクの幾百の花が香りたち、何万ともしれない蜜蜂の羽音が、まるで宇宙の波動のように聞こえ、本当に別世界でした。
それが、数年前から蜜蜂の羽音がかすかになり、よく見ると、たくましい西洋蜜蜂が、小さな日本蜜蜂に代わっていました。 環境の変化のせいか、価格競争の結果なのか、養蜂家の経営が厳しくなったとかで、洋蜂が殆ど消えて、日本蜜蜂だけが残っていました。 しかし、日本蜜蜂も里山が住宅化して何処に住んでいるのか、地蜂の棲み家が本当に心配になり、盛岡の藤原養蜂さんから、地蜂の巣箱と一緒に、日本蜜蜂まで導入する事になり、正月元日は、御節料理もそこそこに、巣箱の置き場つくりにテンヤワンヤでした。 お陰で2日はすっかり参って、初寝正月になりました。

 紅梅園を開いてから今日まで、応援して頂いた多くの方々、買い支えて下さった方々にも、ご高齢になられた方もあり、その方々や皆様にも 〔若し 日本蜜蜂の蜂蜜をお届けできたら、、〕 と、願っての投資です。 蜜蜂は、6日の日に着きます。 去年は 梅園から切り出した どんぐりに、 ”ドンコ” の菌を打ち込みましたが、今年の冬にはお届けできると思います。 急がないと、私80歳ですから、、、。 
梅園の陽だまりにおさまった 日本蜜蜂の巣箱と、2本だけドンコが生え始めた ドングリの椎茸原木。 右はまだ硬い梅のつぼみです。

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1月1日 (木)   今年を 謝恩の年に

 あけまして おめでとうございます。
皆様のおかげさまで、今年も元気で新年を迎える事が出来ました。心から感謝申し上げます
 今年は80歳になります。 梅園を志したのが25歳、農地取得の資金準備と生活のためクリーニングを開業したのが27歳。 最初の畑20アールを買ったのが31歳。 農地法で定められていた最低農地面積70アールを取得し、四苦八苦のすえ、やっと農家と認められたのが34歳で、 初めて自分で 直径1.5m、深さ1mの植え穴 〔たこつぼ〕 を堀り、堆肥や雑草等入れて梅を植えました。 クリーニングとの両立で、時間が足りず、月明かりで植え穴を掘ったり、夕食に帰らない私を心配して、畑までクリーニングの見習い弟子が、おにぎりを届けてくれた事もありました。
以来46年が過ぎて、最終目標の梅園500アール (5ヘクタール) は約1割超えて達成。 
25歳だった私は80歳になります。 今年は 皆様に 謝恩の年でございます。
 
 自然と共生の日本伝統の農業と、主食の米に合った梅干の加工の知恵を、伝承されてきたままに伝えるべく、私の文字通りの 〔艱難辛苦〕 の生産加工を、最後に実らせて下さったのは、20余年も前から無農薬無添加の梅を認めて、広く報道して下さった、フードジャーナリスト向笠千恵子先生や、NHKを初めとした多くのマスコミの方々でした。 又、大勢の方々の応援や励ましと、お客様の口コミのお陰様でした。 どんなに感謝しても 仕切れません。
今年は、紅梅園を継いだばかりの若いスタッフたちと、皆々様に、謝恩の年と位置づけて頑張りますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
写真は、私と最初から一緒だった 事務所周辺の "梅の根っこ" たちです。 畑の中で盆栽になりました。 

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